ふたばの芽〜歩く姿はその人の人生そのもの

七月の初め頃の話です。休日の午前中に買い物に出かけ、新井の街中を車で移動していたときのことです。

赤信号で止まっていると六十代くらいの男の人が一人歩いてきました。
暑い日だったので帽子を被っていたと思いますが、手拭いだったかもしれません。服は藍色の甚平に足元は確か足袋かサンダル、右手にはお弁当の包みをぶら下げていました。
そんな恰好のおじさんが目の前の横断歩道を悠然と、ゆっくり歩いてゆくのです。前を向き背筋を伸ばして、ゆったりと。
まるで、その男性の周りだけ時間の流れが違うような、それくらい不思議な雰囲気を纏って。

私は思わず信号が変わっても見えなくなるまで歩く様をながめていました。

歩く姿はその人の人生そのもの、という言葉を聞いたことがあります。
人目を気にしがちな私にとって、その情景は深く心に残りました。

人目を気にするのは自信がないから。
自分の置かれた状況や生きることへの不安があるから。
しばしば焦る気持ちにもとらわれます。

この些細な出来事は、そういう気持ちに少しだけ変化をもたらしました。
そんなに思いつめずに、肩の力を抜いて背筋を伸ばして、周りの景色をながめてみよう。そんな気持ちになります。
そうやって些細な出来事に心を寄せて深呼吸をして、私はまた私の道を歩いて行こうと思います。

名も知らぬ男性に感謝を。

 

2014/8/6 F(女性)

ふたばの芽〜歩く姿はその人の人生そのもの」への2件のフィードバック

  1. 歩く姿は、人生そのものとは、いいですね。人がどんな姿でやって来て、そして帰っていったかは、いつも印象に残ります。子犬を始めて飼った時のこと。慣れない環境で、道路に飛び出し、車にぶつかり、その犬の前脚は、骨折。生涯、曲がったままで過ごしました。歩くという私達にとってごく当たり前の行いが、実はそうではないのだと、その時、思いました。 
      

  2.  歩く姿のゆったりとした人というのは実にいいですね。その人の心の中の様子が態度にも現れているからでしょう。
     ときどき思うんですが、人間って、本当は決して死なないんじゃないですか。よく世間では「たった一つの命だから大切にしましょう」などという言葉が何の疑問もなく受け入れられていますが本当にそうかなあ? 本当に、死んだらそれでおしまいなんでしょうかね。ひょっとしたらはてしない過去から「死と再生」を繰り返してきたんじゃないですか? 
     でも、ゆったりとした歩きからは今生を最後に輪廻の流れから解脱する人のような感じがしてきますね。心の修養の出来た人だからではないかと思います。私もそういう人になりたいですね。 

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